『負けヒロインが多すぎる!』をみました。以下、感想。
友達のいない高校1年の男子、温水和彦は、ファミレスで偶然にもクラスメイトの美少女、八奈見杏菜が恋に破れる場面を目撃してしまい、やけ食いに付き合わされたうえに奢らされることになる。その負債の返済のため、八奈見は温水に毎日昼ご飯を分け与えることとなり、クラスメイトとして接点のなかった二人は奇妙な縁を持つことになるのだが…。
雨森たきびによるライトノベルのアニメ化。アニメーション制作はA-1 Pictures、監督は初監督作となる北村翔太郎。原作のイラストは『リコリス・リコイル』のいみぎむるで、どこか幼さを感じさせる柔らかな印象のキャラクターたちは実にキュート。この洗練されたキャラクターデザインが、この作品の大きな魅力になっていることは間違いない。
全体的に画面もリッチで、キャラクターの所作は無論のこと、学校空間のなかで動き回る名もなき高校生たちが時折映され、高校生活のにぎやかさ(とそれにほんのりと疎外される主人公)を印象付ける。また、照明のつけかたがかなり特徴的で、暗い場面がかなり大胆に画面を暗くし、また夕方の時間帯には薄暗い中で光と影のコントラストを印象的につけるなど、光源の乏しいロケーションでの画面の印象はかなりユニークと感じた。
さて、お話はといえば、主人公の温水くんが、その相対的に安定したパーソナリティと、気が利かなさと表裏一体の誠実さで、恋に破れた「負けヒロイン」の抱える葛藤を昇華・消化していく、というものだが、ヒロインたちに囲まれるハーレム的なシチュエーションにあって、恋愛という方向には向かわない(向かえない)主人公を設定したことで、キャラクターの関係性が奇妙に安定していて、その塩梅が一つの魅力になっている。
奇しくも同じクールに放映された、米澤穂信の原作による『小市民シリーズ』も、見かけ上は男女のカップルにみえるが、その実「互恵関係」によって成り立っている、恋愛でない仕方で関係を取り結ぶ高校生を描いている。この『負けヒロイン』のほうがよりスマートではない、なしなしくずし的な関係ではあるが、温水くんもまた、米澤穂信が描いてきた(そして乗り越えていくような)「撤退の美学」をうっすら内面化した存在のような気がしてならない。
「できると信じるならばあらゆることはなせるはず」という「思春期の全能感」の裏返しとしての、「どうせ自分には何もできやしない」という諦念。どちらも思春期的な幼稚さからくる極端な考え方でしかないが、前者は相対的に恥ずかしく痛々しいもので、しかもその恥ずかしさ・痛々しさが他者に対してあらわになること自体がさらに恥ずかしさ、痛々しさを助長する。であるならば、後者のほうがベターであるかもしれず、だから賢しい小市民たちは「撤退の美学」によって自身の諦念を正当化するのである。
「撤退の美学」は敗北を認めるのではなく、そもそも勝負の場に自身をさらさないことで維持される。恋に破れた「負けヒロイン」たちは、一度は勝負の場に(それが「いつのまにか」そうなっていただけであっても)立っているという意味で、「撤退の美学」からは遠い存在、少なくともそれをもう貫徹できない存在であるだろう。だから温水くんは文芸部の三人娘に対してメタ的になんらかのかかわりができるのだし、逆に三人娘はその「撤退の美学」のしゃらくささを看過して、「そういうところだぞ」と笑うのだろう。
痛々しくたって恥ずかしさを晒したって、それで人生が終わるわけではなく、むしろそうしたものにまみれる敗北を受け入れることで、ほんのかすかな強さを得ることができるかもしれないのだ。その意味で、恋愛において決定的に敗北することは、「撤退の美学」を乗り越える方途の一つなのだ。
恋に破れるもなにも恋愛以前の少年と、すでに運命の恋に破れた少女たちの交感によって、おそらく温水くんは自身の「撤退の美学」を自身の仕方で昇華、破棄することになるのだろうと思うが、それが一つの理想的な「何か」を描きうることを、ほんのり期待します。
関連
ガガガ文庫つながりで『俺ガイル』をすこし想起したりしたのだった。